ノンフィクションの世界

 

本シリーズの背景となる事件は、事実のものが多いです。このページでは、そんなノンフィクションの内容をまとめました。

なお、より詳しいことを知りたい場合には、このページの「参考書」とした本をお読みください。いずれも時事情勢の入門書として最適かと思います。

 

ヴェトナム戦争 北アイルランド問題 アフガニスタン戦争 パレスチナ問題 太平洋戦争

 

ヴェトナム戦争容赦なく

今でもアメリカ社会を蝕んでいるヴェトナム戦争。この戦争は1961年ごろから1975年まで14年間にわたり展開されました。ここでは概略のみの記述にとどめます(それでも長いですが・・・)。

●ヴェトナムの独立とインドシナ戦争

19世紀後半に、ヴェトナム、ラオス、カンボジアはフランスの植民地となり、インドシナと呼ばれました。第二次世界大戦の末期には、日本軍がインドシナに侵攻し、占領しました。

そして、1945年8月に日本が降伏し、第二次世界大戦が集結したことを受け、ヴェトナムでは一気に独立の機運が高まり、同9月に独立宣言がなされヴェトナム民主共和国が誕生しました。

しかし、ここで黙っていなかったのは元領主国のフランス。フランスはヴェトナムの独立を認めず、南部ヴェトナムに傀儡国家を樹立するなど圧力を加えましたが、とうとう1946年12月にヴェトナムとフランス軍が武装衝突し、インドシナ戦争が勃発しました。ヴェトナムはソ連が支援し、フランスにはアメリカが支援し、米ソの代理戦争の様相を示しました。

●フランスの敗退とヴェトナム分断

当初はフランスが優勢でしたが、士気が高まる一方のヴェトナムに徐々におされ、1954年5月にフランスは最後の拠点、ディエン・ビエン・フーで大敗を喫しました。

ディエン・ビエン・フーの陥落の翌日から、スイスのジュネーブでインドシナ戦争の休戦についての国際会議が始まりました。フランス、ヴェトナムだけでなくアメリカ、イギリス、ソ連、中国が参加したこの会議では、フランスのインドシナからの撤退と、ヴェトナムを北緯17度線で北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)と南ヴェトナム(南ヴェトナム共和国)に分断することが決まりました。

当然のことながら、その後も北ヴェトナムにはソ連、中国から、南ヴェトナムにはアメリカから軍事援助がなされました。

●南ヴェトナムでの共産主義の台頭

南ヴェトナムにはアメリカから年平均2億ドルの経済援助がなされました。しかし、これらは国の大部分を占める農村には届かず、政府、軍上層部が搾取していました。この状況に国民の不満は徐々に高まり、反政府運動が活発になってきました。1960年代には軍によるクーデターも度々勃発しました。

そして1960年12月にヴェトナム戦争の主役、南ヴェトナム民族解放戦線(NLF)が結成されました。彼らは国内各地で政府要人に対するテロ行動や政府軍に対するゲリラ戦を起こし国内を混乱に陥れました。やがてその実権は、南ヴェトナム国内の共産主義者と北ヴェトナム政府に握られるようになりました。

一方、アメリカは南ヴェトナム軍に対し、軍事顧問団を送り出し、軍事面での支援を強化しましたが、これに対してもNLFは反発し、在ヴェトナムのアメリカ人に対するテロ活動も行いました。

●ヴェトナム戦争への突入

この状況にアメリカは「このままほっておいたら、ヴェトナムは共産主義者の手に落ちる。そうなれば、ドミノ倒しのように世界中に共産主義が広まっていくかもしれない」と恐怖感に陥りました。そして、1964年8月にアメリカ海軍の駆逐艦が北ヴェトナム軍に攻撃を受けた「トンキン湾事件」が発生したことで、アメリカ大統領(ジョンソン)は報復として北ヴェトナムに対する空爆を開始しました(「北爆」と呼ばれるこの空爆は1972年まで続けられました)。

これに対し、ソ連、中国が黙っているはずはありません。彼らは北ヴェトナムへの経済的、軍事的支援を拡充させました。

なお、「容赦なく」でザカライアスが撃墜されたのは、この空爆の途中だと思われます。

一方の南ヴェトナムではNFLの活動がさらに過激化し、この年の11月には南ヴェトナム最大のアメリカ空軍基地が襲撃されるなど、アメリカ軍の犠牲者も増え始めました。翌年後半にはアメリカも本腰を入れて戦闘態勢をとり、空軍、陸軍の大量投入を開始しました。

こうして、北では「アメリカvs北ヴェトナム」、南では「アメリカvsNFL」の戦闘が激化していきました。この過程で多くのアメリカ軍兵士が捕虜になりました。

●ヴェトナム戦争の終結

戦争が長引くにつれし、アメリカ国民は「なぜアメリカの青年がアジアの一地方で行われている戦争で命を落とさなければならないのか?」と疑問を持ち始め、各地で反戦デモが起こるようになりました。70年代に入ると戦争負担がアメリカ経済にも悪影響を与え始め、アメリカは足元から揺らぎ始めました。

1972年になると事態は急展開をみせます。2月にはアメリカ・中国の首脳会談がなされ、大国間に和解ムードが流れました。そして、北ヴェトナムと南ヴェトナムの戦いが続く中、アメリカは8月に軍隊を撤退させ、これで「アメリカ側のヴェトナム戦争」は終結しました。

なお、南北ヴェトナムの戦闘は1975年4月に南ヴェトナムが無条件降伏するまで続きました。そして、1976年には南北ヴェトナムが統一されました。

●アメリカの損失

この戦争でのアメリカ側の損失は、戦死者 58,000 名余り、航空機損失 1,700 機でした。しかし、それより深刻なのはヴェトナムから帰還した兵士の問題でした。彼らの絶望感、挫折感はものすごく社会復帰が困難でした。また、アメリカ市民の中には彼らを疎外視する者もいました。これがその後のアメリカの政治、経済、モラルに大きな影響を与えました。

 

北アイルランド問題愛国者のゲーム

アイルランドとはイギリスの西にある島国です。しかし、北アイルランド地方はイギリスの領土(植民地)となっています。どちらもキリスト教徒なのですが、アイルランドはカトリック、北アイルランド地方はプロテスタントです。

この植民地問題と、宗派の違い、これが北アイルランド問題の根源です。

●イギリスによるアイルランド支配

アイルランドはイギリスと比較して土地が痩せており、貧窮に困している国でした。そのため、12世紀にはイングランド人の侵入を受け、土地が奪われてしまいました(注:当時、イギリス本島はイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの王国に分かれていた)。大半の住民がイングランド人地主の小作人となってしまいました。

16世紀までイングランドもアイルランドもカトリック教徒でした。しかし、16世紀に当時のイングランド国王が王妃との離婚を認めないローマ教会に反発し、独自にイングランド国教会を設立し、プロテスタント国になってしまいました。スコットランド、ウェールズもそれにならい反カトリックとなりましたが、アイルランド人はそれに抵抗し、カトリックを貫きました。

しかし、17世紀にはアイルランドのカトリック信仰は完全弾圧され、アイルランドはイギリスの統治下へ組み込まれ、宗教的、社会的、経済的に差別・迫害されるようになりました。

●アイルランド独立への動き

それに対しアイルランド人は抵抗の炎を燃やし続け、18世紀中旬にアイルランドを襲った大飢饉に対し、イギリスが何も手を打たなかったことに対し、怒りはピークに達し、武装組織が生まれました。
1919年、アイルランドは独立を一方的に宣言し、イギリスとの3年にわたる闘争の末、1922年に自治領として「アイルランド自由国」を手にいれ、1949年に完全独立を果たしました。

しかし、それでも北部の6州はイギリスから返還されませんでした。それはこの地方の住民の多くがプロテスタント教徒であり、カトリック国アイルランドに併合されことを拒んだのと、イギリスとしても、この地方に投資を行い、商工業地帯として発達させていたため、手放したくなかったためです。

●北アイルランドをめぐる争い

プロテスタントが60%を占める北アイルランドでは、カトリック教徒は「少数民族」として就職や賃金で差別されました。1960年代、彼らの怒りは爆発し、差別・弾圧撤廃運動からさらに拡大し、北アイルランド奪回をめざす「アイルランド統一闘争」となり、アイルランド共和国軍(IRA)の過激な行動が始まりました。
IRAは北アイルランドで爆弾テロを頻繁に行い、イギリスのみならず世界中を震撼させました。この事態を収拾させようとイギリスは1980年代以降、調停に乗り出し、さまざまな交渉の末、1997年にはIRAが停戦を表明しましたが、完全には武装を解除しないまま現在に至っています。

 

アフガニスタン戦争クレムリンの枢機卿

●ソ連の南方政策

当時、アメリカと冷戦状態にあったソビエト連邦の最大の弱点は、冬になっても凍結しない港が少ない(ない?)ことでした。そこで、ソ連は不凍港の確保を目的として南下政策を始めます。その最初のターゲットとなったのがアフガニスタンでした。

アフガニスタンは1919年にイギリスから独立しましたが、1978年にソ連が介入して軍部によるクーデターを成功させました。しかし、翌年には国内の民族主義派が抵抗し、政権を転覆しました。
それに対しソ連は再度、軍事介入を行い、カルマルという議長をたて、傀儡政権を樹立しました。

●イスラム民族の抵抗

このソ連の侵攻に対し、アフガニスタン人は激しい抵抗を行い、彼らはムジャヒディン(聖なる戦士たち)と呼ばれました。その彼らを支援するために世界中のイスラム諸国から義勇兵達が集まり、ソ連との間に戦闘が始まりました。
特に「アフガニスタンがソ連の手に完全におちれば、次は自分のところが危ない」と思ったパキスタンは、アメリカに協力し、CIAによるアフガン兵の軍事訓練や武器の提供を支援しました。

●ソ連の撤退とその後

予想を越えるアフガニスタンの激しい抵抗を受け、この戦争はソ連にとっては経済的破綻と戦争後遺症症候群の帰還兵をもたらすだけのもととなり、1986年にソ連のゴルバチョフ議長はカルマルを解任し、1989年にアフガニスタンから軍を完全撤退させました。
しかし、その後、多民族国家のアフガニスタンでは民族間で主導権を巡る内戦が起こり、1994年にはイスラム原理主義集団タリバンが勢力を拡大し始め、2001年には全土の90%を掌握しました。しかし、2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロの報復としてアメリカがタリバン攻撃を行い、彼らの支配は終焉しました。

 

パレスチナ問題恐怖の総和

いまだに終息をみせないパレスチナ問題。その根源は実は今から4000年前にあるのです。この問題は歴史が長く、奥深いため、説明しだすとページが足りません。ここでは簡単な記述にとどめます。

●旧約聖書の記述

旧約聖書には、紀元前2000年ころ、バビロニア(いまのイラク)に住んでいたアブラハムが、神の導きによって、カナン(いまのイスラエル)に移住した際、神が彼に「私は、お前とお前の子孫とにカナンの全地を永久の所有として与える」とお告げを与えたと記述されています。このアブラハムはユダヤ民族の遠い祖先にあたり、ユダヤ人はこの聖書の記述を根拠として「イスラエルの土地は、神からユダヤ民族に与えられたもの」と考えています。

旧約聖書はユダヤ教の聖書です。しかし、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「同じ一つの神を信仰している」ため、旧約聖書はユダヤ教のみならず、キリスト教やイスラム教でも聖典とされています。旧約聖書に書かれている神の言葉は「絶対的なもの」と3つの宗教で考えられているため、キリスト教徒、イスラム教徒も「イスラエルはユダヤ人のもの」ということを認めざるを得ないのです。

●ユダヤ人国家の崩壊

ユダヤ人はイスラエルに住み始めたあとも、何度か外国からの侵略を受け、離散することがありましたが、上記の神の言葉を拠り所として、必ずユダヤ人国家を再建してきました。しかし、紀元前40年、イスラエルはローマ帝国の侵略を受け、その属国となってしまいました。それに対し、紀元70年にユダヤ人は蜂起し、独立戦争を始めましたが、強大なローマ帝国軍にかなうはずもなく、エルサレムにあったユダヤ教の神殿は破壊されました。その後にも散発的に起こったユダヤ人の抵抗も鎮圧され、ユダヤ人はイスラエルから追放されました。そして、ローマ帝国はこの土地を「パレスチナ」を呼び変えました。

●シオニズム運動とイギリスの二枚舌

イスラエルから追放されたユダヤ人はヨーロッパ各地に移住しましたが、その移民先で彼らは迫害を受けることになります。19世紀頃になるとユダヤ人のイスラエル帰還をすすめる運動「シオニズム運動が盛んになります。もちろんこの運動の根底にあるものは前述の「神の言葉」です。ユダヤ人たちは徐々に当時トルコの支配下にあったパレスチナに渡り、開拓をすすめていきました。

その状況が大きく変わったのが第一次世界大戦です。イギリスは、当時戦争状態にあったトルコを撃破することを目的とし、1917年、ユダヤ人に対し、「パレスチナでのナショナルホーム建設を支持する」旨の「バルフォア宣言」を行い、戦後、1922年にはパレスチナはイギリスの委任統治領として国際的に認知されました。
が、その一方でイギリスは1915年にアラブ民族に
「アラブ一帯の自治権を認める」約束をしていました。大戦後、アラブ側からこの約束の履行を強く求められたイギリスは、パレスチナ委任統治領を分割し、その4/5にあたる土地に新アラブ国家トランスヨルダンを設立しました。

このイギリスの二枚舌と身勝手さにユダヤ人側がショックを受け、抗議したのは当然です。

●イスラエル建国と中東戦争

誰でも知っているように第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツはユダヤ人を迫害しました。そのため、多くのユダヤ人が難民としてパレスチナに殺到しました。戦後、その勢いはさらに増し、とうとう手におえなくなったイギリスは、問題を国連に委ね、国連は1947年11月にパレスチナ分割案を採択しました。しかし、それはパレスチナの半分をユダヤ人に譲り渡すというアラブ側にとっては屈辱的なものでした。

翌年5月14日、ユダヤ人は突如イスラエル建国を宣言しました。それに怒りを覚えたアラブ諸国は、その翌日にイスラエルに対する軍事攻撃を始めました(第一次中東戦争)。その戦争に勝利したイスラエルは、ヨルダン川西岸とガザ地区を除くパレスチナ人地区を奪取しました。

中東戦争はその後、1956年、1967年、1973年に勃発し、その都度、イスラエルが勝利を収め、領土を拡大していきました。

●パレスチナ人の反抗

ユダヤ人の言い分は「この土地はもともと自分たちの家。追い出されていた我が家に戻ってきただけ」ですが、パレスチナ人にとっては「2000年近くも空家にしておいて、今更それを返せと言われる筋合いはない」です。

第一次中東戦争で難民となったパレスチナ人は反イスラエル武装集団を結成しました。その最大の組織がヤセル・アラファトをリーダーとする「パレスチナ民族解放運動(ファタハ)」です。1964年には第1回アラブ首脳会議でパレスチナ人の政治組織「パレスチナ解放機構(PLO)」が設立され、1969年にアラファトがその議長に就任しました。

PLOが政治的な活動を行う一方で、イスラエルの不法占拠に憤るイスラム原理主義武装組織「ハマス」は爆弾テロを行い、1987年にはパレスチナ住民による一斉蜂起「インティファーダ」が勃発し、血なまぐさい争いが繰り広げられました。

●和平への動き

風向きがちょっと変わったのは1990年の湾岸戦争。対イラクのためにアラブ穏健派とイスラエルが同じ陣営についたことでアラブ諸国のイスラエル拒否姿勢は崩れはじめました。そして、1993年9月、突如、イスラエルとPLOの間に「パレスチナ暫定自治協定」が結ばれました。

和平への動きが始まりました。しかし、イスラエル完全排除を目指す「ハマス」はいまだに自爆テロを継続し、それに対し我慢の限界を超えたイスラエルは、パレスチナ側を攻撃し、和平への道はまだまだ前途多難です。

 

太平洋戦争日米開戦

1941〜5年に日本はアメリカと戦争をし、負けました。超大国と戦争などと、どう考えても無謀なことですが、何故、このような事態に陥ったのか?。戦時中はさまざまな出来事が起こりましたが、ここでは「日米開戦」での出来事に関係するものに焦点をあてて、記述します。もっと詳しく知りたい方は、「参考書」をお読みください。

●資源を求めて

いまも、60年前もかわらず、日本の最大の弱点は石油などの資源をもたないこと。1930年代後半、日本は資源を搾取するために中国に侵略しました。これに対し中国は抵抗しますが、日本は1940年ころには中国の半分以上を占領しました。アメリカやイギリスは中国に対し軍事援助を続けます。アメリカは日本に対し中国から撤退するように要求し、1940年に経済制裁を行いました。

一方、日本は東南アジア諸国の石油や鉱物資源を手中に収めようと考えます。これが「日米開戦」にも言葉が登場した「南方資源地域」になります。当時、ここはフランス(ヴェトナム、カンボジア、ラオスを支配)、イギリス(マレー半島、シンガポールを支配)、オランダ(インドネシアを支配)が支配していました。

1941年7月、日本陸軍はヴェトナムのサイゴンに進駐しました。その行為に怒りを覚えたアメリカは即座に日本への石油輸出を禁止しました。

●太平洋戦争勃発

当時の日本は、石油輸入量の70%以上をアメリカに依存していました。そこからの石油輸入がストップされたからには南方資源地域が必要不可欠になります。東南アジアへの侵攻に際しては、アメリカ海軍の干渉が邪魔になります。そこで、日本海軍はアメリカの戦力を削ぐために、1941年12月7日、アメリカ太平洋艦隊の母港ハワイ、パール・ハーバーを奇襲します。宣戦布告がされないまま攻撃を受けたことに対し、アメリカは猛烈に怒ります。

そして、同日、日本陸軍はマレー半島に侵入し、イギリス軍と対峙します。翌年2月には日本陸軍はイギリス軍を追い詰め、マレー半島、シンガポールを制圧します。また、同年3月までにはフィリピン(アメリカの領地)、インドネシアも日本の手におちました。

●アメリカの反撃

日本の快進撃で始まった戦争ですが、アメリカも負けているわけにはいきません。アメリカは徐々に反撃を加え、太平洋の島々をひとつ、またひとつと攻略していきます。彼らの目標は、マリアナ諸島に日本本土攻撃の最前線基地を作ること。そこからならば、B29爆撃機をつかって、北海道を除く日本のほとんどを爆撃できるからでした。

1944年6月11日、アメリカ軍はついにマリアナ諸島のサイパン島に空爆を開始します。15日にはアメリカ海兵隊が島の南部に上陸、日本陸軍との激しい戦闘が始まりました。しかし、アメリカの猛攻に日本軍は島の北側に追い込まれていきます。そして、6月24日、日本はサイパン島の放棄を決定しました。7月7日にはサイパン島の生き残りの兵はアメリカ軍に突撃し、玉砕しました。また、避難帰国が遅れた民間人たちも島の最北端のマッピ岬まで追い込まれ、ここから身を投げました。ここが「バンザイ・クリフ」です。

サイパンやグァムなどのマリアナ諸島を奪取したアメリカは、ここからB29を発進させ、日本を空襲しました。1945年3月には東京大空襲が起こり、死者は10万人以上にも及びました。

●原子爆弾の投下と日本の降伏

そして、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下されました。両市での死者数は数十万人にも達しました。さらに原子爆弾からうけた放射能障害のために、ガンや白血病で死亡する人が相次ぎました。被爆を受けた人たちは「ヒバクシャ」と呼ばれ、差別を受けることもありました。

8月15日、日本は降伏し、戦争は終結しました。その後、1951年9月まで日本はアメリカに占領されました。日本が独立した後も、沖縄のアメリカ占領は1972年5月まで続きました。

 

 

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21世紀の世界の民族紛争
(福岡政行 監修)
主婦と生活社

面白いほどよくわかる太平洋戦争
(太平洋戦争研究会 編著)
日本文芸社

 

Last Update  2013.05.02    Copyright Shigeru Sakamoto